初仕事の頃


そう、あれはぼくがまだ本当に若い頃だった。姫路の難民定住センターで、はじめて日本語のクラスを担当した。授業の、特にテクニック的なことはもうほとんど何も覚えていない。覚えているのは断片的な、当時の私の眼にはもの珍しく映ったことだ。


教室には、木造船にひしめく国外脱出時の手書きの絵が貼ってあった。私が来る前のもう修了した人が描いたものだった。その下に作文が添えてあった。詳しくは覚えていない。船上で死んだ人が、子どもも、いた、というそのことが書かれてあった。ときどき、気持ちが悪くなります。難しかったときのことを思い出します。そんなとき、勉強あまりできません。私たち勉強できない時、先生がた、怒らないでください。そんなことが書いてあった。


ある時、休憩時間に、この世の終わりであるかのように激しく泣いているベトナム人女性を見た。どうして泣いているのかというと、香港の、同じく難民キャンプにいる兄弟が喧嘩の果てに相手に刺殺されたからであった。


子どもクラスを担当させれたことがあった。子どもたちは、日本語になのか、私になのか、あそらくその両方にだろうが、全く興味を示さず、何をすべき時間なのかを伝えることもできずお手上げだった。教室を飛び出した一人の子どもを追って、「こらー」と言ったら、シスターがすっ飛んできて、上に報告しますよ、と睨まれた。シスターは隣接する病院がキリスト教系でもあり、難民センターに支援者として来ているのであった。


しばらく顔を見せなかったあんちゃんが、九州まで巡業してパチンコで現金をしこたま稼いで来たのだと自慢していた。たくましい一面は至るところに見られた。敷地の外の電柱から居住区域の部屋に電線を引いて電気を取っていた。なんのために?それは今だに分からないのだが。


旧正月明けの授業の時、ベトナム風甘酒を作って振る舞ってくれるというので、いただいた。
作り方を聞いて、いけないとは思いながら、こみ上げてしまった。なんとか押さえはしたが。
作り方は書かない、知っている人が知っていれば良い。ま、そんなこともあるさ。


会話テストの採点をいきなりやらされた。いい経験になった。それから、カンニング事件が発生して、騒動になった時、私は冷や汗をかいた。試験当日は私が遅刻して、監督を途中まで急遽近所の先生がやってくれたのだった。あれがなければ、私が遅刻さえしなければこんなことも起こらなかったのでは、誰もがかばってそのことに話が行かないようにしってくれるのが、かえって、身の縮む思いに拍車をかけた。


ワークショップの会合は、新大阪駅から歩いて数分の所だった。Y教授が、ワンマンぶりを発揮して、ワークショップを統括していた。「女性というものは・・・」男の私ですら聞くに堪えない
女性をくさす発言が延々続くこともあった。「おれが女やったら、さんざん反論して、もう今時分辞めてるやろな」と思いながら、聞いていた。おれは男だから、反論できない。誰か女の先生が反論すべきだ、という言い訳をぐるぐる頭ん中をまわしてた。そう、言い訳でしかない。