自然言語(ここでは日本語)における事実の確定問題(メモ)


自然言語から形式論理が対応できる自然言語の機能を差し引いても、依然はずれ残る自然言語の意味作用と指示作用と伝達作用それぞれの範囲をいかに確定するかという問題である。


が格の、排他的用法と措定的用法は、差し引かれる方に入ると思われる。(妥当性の検討は別項にて)


が格の、眼前現象叙述的用法は、経験的事実を述べる日本語形式の基底に置くべきものと思われる。


事実自体は、実際の言語表現においては、表現主体との関係において、「真」の程度あるいは「信」の程度あるいはその両者を加味して、発信される。


思う と 考える の用法の違いがあるように、思考対象となる事実においてさえ、表現主体が事実を志向し、探り当てたり、途中まで事実に行き着いたり、疑惑に包まれたりするなかで一定の<事実>を形成する際に生じる異なるモードの存在が予想される。受動的志向に基づく「思う」と能動的志向に基づく「考える」 である。恐らく「脳」の言語処理過程にもモデュール的区別があるものと予想される。


思う は が的 である。 


考える は は的である。


古くて恐縮だが、デカルトは判断の妥当性を吟味する方法として、ある観念とある観念を結合することを肯定し得るか、し得ないか、意志的反省を遂行し、ある判断に分離と結合を加えてみるという思考について叙述している。


判断が素朴に遂行されているのが 思う だとすると 意志的努力により 再検討されたのが 考える に符合しはしまいか?


さて、話は変わるが、映画やアニメやマンガと違い、言語のみで仮想的現実の<想像>を可能にする小説という形式がある。単なる差別かもしれないが、ライトノベルには挿絵が多くあり、筆者の偏見と巷間の噂や評論によると暗あん黙もく裡に前提となるお約束があまた存するそうなので、小説には含めないが、物語の新形式には含む。マンガあるいは、アニメのやっていることを言語化したもの?


多分、戦後、アニメに憧れて代償行為としてマンガを描いた手塚治虫から、ある形式がある形式への憧れと代償になっていることは生産的である可能性はある。映画への憧れとその代償は、戦後黄金時代のマンガ家にはかなり決定的だろう。手塚治虫がちょっと違うのは、他の近代演劇やら伝統芸能やらレビューやら、医学他の科学やら文学やらSFやら、参照先が多岐にわたることか。
間にもいろいろあっただろうが、いまや、マンガが描きたいけど絵が描けないヒトや、アニメ制作に行けなかったアニメ好きが代償として、しかたがないから文章で・・・二次的なジャンルになった? 


夏目漱石は、現状を見てどういうだろうか。


漱石夏目の小説構成要素 F(事実もしくは事件もしくは現実)+f(情緒的)の説を再考してみよう。


Fは、括弧付きの現実、つまり虚航のーー現実に似ているなにかーーであり、「脳」の想像力の働きに支えられる限りにおいて現れるものである。「脳」はゲーム脳になると現実と虚構の区別がつかなくなるぞという脅しにも関わらず、よほどの失調が無い限りは、瞬時に、というかもともと外界の<現実>、客観性を問いうる基盤となる<世界>と<想像された世界>の区別ができる。可能だ。


この虚構の世界を想像しうるーー言語によって他者とまで共有しうるーーこの能力とは一体なんなのか。事実との関連において、人の向世界態度のモードの違いでしかないのか?互いに相補的な定義に収まるのみなのか? 現実は想像ではないもの、想像は現実ではないもの、というようにして、定義できるものなのか。あるいは、ヒトの直感に頼らない個別の定義が可能なのだろうか。


普段可能であるが故に、プラグマティックにはそういう定義が必要というわけではないだろう。


<想像>の進化史上の先輩に<夢>がある。意志的思考が、昼間に覚醒したままで<夢>を見ることを可能にしたのだろうか。そのためには相当なメモリーと集中力を発揮しているんだろうな。また、<夢>が可能なのは、再現性のクオリティーの高さであろう。寝てる間、本人すらごっついリアルに感じている。自己欺瞞の最たる機能である。クオリアレベルのハイフィデリティーと、不思議なことにいやにギャップのある
設定やストーリー展開、誰しも自身の内に一匹非理性的妄想ニンゲンを飼っているってことか。

後付け> <想像>のもうひとつの進化史的前段階には、行動のプランニング、シミュレーションがあっただろう。過去の再現、記憶の再生と将来の行動計画、帰結の予想および評価は、互いに結びついて強化されてきたと考えるのが妥当だろう。「獲物が減って来たので移住せんければならんが、ご先祖様も知らぬ南へ向かうか、北へ戻るか・・・・はて?」同時に身の回りの簡単な非現実的仮想が始まったのちに、この世界のここがこうでなかったらという反現実仮想まで飛躍していったという過程は想像しやすい。
平行して、個別のものや現象の分類範疇の形成、さらに上位レベルの法則把握、さらに上位レベルの認知そのことの<折り返し>ーー認知機能自体を認知するーーに至る過程で、自然神や天界など異世界という<前科学的仮説>をさまざまにもった。


なるほど、自分が好む哲学的思考、言語についての考察、文学、歴史、ノスタルジックに振り返る宗教的言説などは、こういったことのヒトの能力のうちの<折り返し>的なものなのかもしれない。音楽はどうなるのだろうね。


些末な日常の人間関係のごたごたの元であったり、健全な成長や成功の鍵であったりして、行動や幸福にまで影響が取りざたされている認知を考えてみると、その大事な認知を誤らせるのは、願望に基づく認知の失敗で、ここでは<想像>がよけいな悪戯をしているらしい。


意識や心理に傾いて来た。言語に戻そう。


覚醒状態で、事実の境界がぼやけるのは、時間による退化である。脳内の記憶はやはり頼りにならない。かといって、文字記録でさえ限定的であり、局所的であり、フィルターもかかれば、後の解釈をいかに確定するかという揺れが生じるものでもある。映像記録は、発明以前には遡れない。やはりこれもまた、局所的であるし。


量子力学が存在の基盤に確率統計的存在をおいたのだとしたら、言語による事実の確定にも、根底に確定しきれない距離があることを心得るべきだろうか。


わたしは個人的に、自分自身の非常にパーソナルなレベルでの信念に関して、そういった再検討を思い、考える秋のような感じがしているんである。


20世紀初頭のヒトみたい、だね。ようやく出発点。


あと10年ぐらいで、一定のまとまった整理に至れるだろか。


(一晩寝た後の付記:寝られずに闇雲に書いたんだが、これを書いてから、まだ寝られず認知言語学日本語教育にまたがる検索を掛けたらいろんな研究者の論文や発表がヒットした。潮流は、生きて機能している「事態把握」の実相に迫ろうという方向のようで、近代哲学的なスタティックな構えから、事実認識の確定条件はなにか、と問うものにはあまりお目にかからなかった。言語学の自然化、言語科学化はかなり進展しているようですね。)


裁判員制度という、またまた、これまたいかがなものかと問われるような制度に向けても「事実の確定」の難しさに関して一般の認識のレベルを急遽底上げしなければいかんのではないか、という意識もいささか関わって書いているかもしれない。


実社会では、事実に関する言語表現が、当の事実に適合しているかどうかをいちいち検討してくれない。むしろ、そういった言表があるという事実のみに依拠して、事実と認定し、特定の主張に用いられたりする問題を多くはらんだまま成立していると見てよいのではないだろうか。


これは妄備録として書いた。