ある指摘、外国人の呼び捨て


日本語レッスンのクライアントであるAさんから、ある指摘をいただいた。能力試験N1にチャレンジ中とはいえ、日本滞在が長くパートナーは日本人であり、コミュニケーション力はすでにそれ以上の方である。


日本人が外国人を呼ぶときに呼び捨てにすることである。あるグループの中で日本人同士は姓にさんを付けて、「田中さん」のように呼ぶのに、外国人の場合、そんな中でもファーストネームで呼び捨てにする、たとえば、ジョンスミス氏を「スミスさん」と呼ばずに「ジョン」と呼ぶ傾向がある、というのだ。


そのときは限られた時間内で、一応、ケースバイケースでいろんな呼び方、呼ばれ方をしていると考えられるので一概には言えないのではないか、最後にそのようにお答えしたのだが、しかし、まだ決着がついたとは考えていない。すっきりしない。実際どの程度そうなのか。それはモンダイなのかそうではないのか。ここでも、結論は出ないがそのとき出た想定や、その後ほかのクライアントとの話、わたしの考えなどを今からずらずらっと書くので、この記事を目にとめてなにかコメントがあったら、書いて下さい。


まず、その指摘を受けて、Aさん自身も具体的に経験があるか、訊ねた。ウイキペディアにもそれに触れた記事があり、そこで人権問題にもなりかねないと書いてあったとのことだった。また、Aさん自身、ある公的機関を定期的に利用していたときにしばらく呼び捨てにされたことがあり、その相手に不快なのでやめてくれるように頼んだことがあった。ずいぶん前だったが、確かに私もその話を伺ったことがあった。


さらに、Aさんがパーティーをやったり友人のパーティーに参加して前からそれが気になっていたそうなのだ。日本人と日本人以外のどちらも来る。そのときに、日本人が日本人を呼ぶときは名字にさん付けするのに、外国人はファーストネームの呼び捨てになる。


Aさんからの話は大体そういうことだった。
日本人の場合は友人同士であっても、大人になってから知り合った友人には共通のあだ名でもない限り、名字にさん付けになるのが大方だろうと私は思うので、そのことはAさんにも言った。


今考えたことも書いておくが、子どもの場合でも親しみをこめて呼ぶ場合に、呼び捨てだけではなく、ちゃん付けもある。
でも、その場面で、仮にジョンスミス氏をつかまえて、友達といえども、「ジョンちゃん」では子ども扱いになる気がする。そして彼が属していた元の文化の慣習では、親しくなったら「ジョン」と呼び捨てにするのだろうと日本人は考えていると思う。


これはこれで、私たち日本人にとっては自然な思考経路を経てそうなっているだろうが、Aさんにもっと詳しく意見や考えまで聞けていないので、この辺から、自分の考えばかりになってしまうけれど、指摘してくれた当事者の話を詳しく掘り下げておくべきだったと反省しながら先へ進むのだが、Aさんはたぶん、一度この非対称性に気づいて気になり始めたのだろうと思う。


そう。思い出した。Aさんが自分の希望として明言したことがまだひとつあった。日本人の間に溶け込んだ気持ちになっている自分としては「同じように扱ってほしいのだ」ということだった。Aさんがこの話題をレッスンのトピックとして持ち出したのもそのためだった。それを忘れていた日本人の私の意識の動きの揺れ、無意識の隠蔽、そんな微妙な心理のひだひだ上の無自覚にも目を向けるべきだろとこれを書きながら気がついた。


日本国内でもたびたび目にすることの出来る海外ドラマの友達になるシーン。I'm John. Call me John.で、握手。多くの日本人の場合本物の外国人と出会う前からこういう映像に出会っていることが多かろう。そこでAさん、またはAさんと同じ気持ちの人の希望を聞かずに、――友達になったようだから、ええとこういう場合は呼び捨てにするのだろう。日本人的な敢えて言葉にしないで相手を慮った行為を実行する傾向が、ここで発動する。


この類推の過程には漏れがひとつある。シーンを巻き戻してみれば明らかだが、本人の「呼び捨てにしてくれ」という宣言がはさまっている。無論、実際のほんものの外国人が希望の呼び方を宣言していれば日本人サイドもそれに従うだろう。けれども、日本人同士の習慣では、初対面で自分の呼び方を相手に告げる習慣はない。それに従う限り、外国から来た彼または彼女は、日本人にファーストネームで、しかも呼び捨てにされてしまう。


Catch22!
・・・この映画、おもろかったなあ。小説も上下全部読んだなあ。不条理戦争コメディの金字塔。


異文化間のコミュニケーションで、どっちの文化的習慣をドミナントにするかというところだ。ここで、ああ、ふたつの文化のいわゆるひとつのすれ違いが生まれていたのだと一度嘆息してみよう。そして嘆息に終わらないで日本文化的に「外国文化」を組み込んだ扱いが無意識のうちにダブルスタンダードになってしまっているというAさんの指摘もあることを思い出そう。


個人間の距離はもとより、日本での生活の年期の入り方や個人個人の思想信条や性格や好みで、一様な最適解は得られないかもしれない。そんな案件なので、一人一人の相手に聞くのが一番でありましょう。


さて、日本語教育の経験者なら、ここまで私が「外国人」と言いながらイングリッシュネームを持つ人で代表させている不手際にはすでにお気づきのことだろうと思う。


日本国内の日本語学校の学生には中国人、韓国人の方が数は多いし、そのほか、多様な文化圏から来てくれた人たちがいる。東アジア圏の学生は、日本語学校では名字にさん付けで呼ばれることが多いだろう。口頭のコミュニケーションは基本的に「です/ます」の丁寧体をもっぱら学ぶ所である。この場合、「王さん」や「張さん」が丁寧体に合うし、実際教師と学生、ならびに学生間も日本語で話すときは「ーさん」である。学生同士が母語でやりとりするときは知らない。だが、日本語を使う場合は教室での習慣を通している。


あるとき、ある中国人の学生のことで、その保証人の日本人の方と話していたら、私が決まって学生の姓にさんを付ける、相手の保証人は呼び捨てにする、と、そういうやりとりが続くうち、話の途中で、さすがは日本語の先生は言葉遣いが丁寧ですな、とほめられたことを思い出した。わしも本来なら「ーさん」付けたほうがええんじゃろうか、とまでおっしゃった。こちらはなんとなく温度差を感じつつも、惰性と言うか習慣と言うか、相手が呼び捨てにするのも、そういう人間関係が成立しているのだろうくらいに受け止めていた。


まあ、プロの日本語教師にとって、生の日本人の日本語の多様性やら揺れやらは観察の材料であって、普通は、その人がどうしてそういう日本語を使ったのかという考察はしても修正まではしない。日本人の日本語を直しても銭にはならんし。恨まれでもしたらかえって損だ。政治家だの、官僚だの、企業のトップだのの日本語は直し出したらきりがない。留学試験の論文でも点が取れんわい。


しかし、そこまでエラそうに言うプロを自認する日本語教師の世界でも、Aさんの指摘は西洋文化圏からの学生の呼び方について一石を投じる値打ちのあるものなのである。そうなんですよ。アンヘロ=サムソンさんは、サムソンさんと呼ばずにアンヘロさんと呼んでいた。メアリー=ラフルーさんはラフルーさんではなくメアリーさんと呼んでいたのです。ただの日本語教師以上に、国際的に公平公正な関係の構築に敏感であると自分では思っていた私でさえも、いまになって気がついた。てーたらく。


ちなみに、どっかで聞いたことだが、中国人は日本に来たときは日本語読みを受け入れるが、中国に来た日本人の呼び方は中国語読みにするのが通例だそうだ。田中さんは、ディエンチュンさんだ。


巷の英会話学校で、中高生がアイドルのようにネイティヴの教師を
ファーストネームの呼び捨てにするのは、会話の練習としてフランクでカジュアルなコミュニケーションエクササイズをやって、その延長での呼び捨てなら、呼ばれる本人も容認しているのなら、それもよかろう。だが、大人もそれでは配慮が足りないと言わざるを得ない。一度、ネイティヴの先生なり、そのほかのそれぞれの関係において、ちゃんと聞いてない場合は聞いてみて。これを読んで、あっと思った人は、一度聞いてみることをお勧めする。関係が悪くなることはないと思う。


考え過ぎかもしれないが、ひょっとすると、英会話学校の大人たちも、それから、日本語学校の教師たちも、マレビトとしてコミュニティーに現われた外国人をまつりあげてしまっているのかもしれない。かつての地域社会にあった共同体はもはや見る影もなく、英会話学校日本語学校に来てくれた異人のおかげでできあがった擬似的なコミュニティーを束の間享受しているのかもしれない。


実際にはファーストネームで呼び合うにはまだまだトモダチと言えるほど理解し合えていないと胸に手を当ててみたアナタが感じるのであれば、オトナなのに舞い上がっちゃってないか検討する必要が。


以前から言われている日本人に対する批判、西洋崇拝非西洋蔑視の傾向については、今はまだ、これとそれに関連があるようなないようなどっちとも言えない心持ちだ。これまで自分はむしろその逆の傾向が強いような気持ちで生きてきたが、当然と考えて、見たり、聞いたり、やってきたりしたことに潜む落し穴に知らず知らずはまっていることがあるかも。


日本語学校では、丁寧体に偏っているとは前々から考えていて、今の自分のプライベートレッスンでは、普通体の会話も不十分ながら入れている。どちらも使えてスイッチできるように気をつけている。日本語学校でも友達同士の会話も本格的に入れてみると、また新たな発見があるかもしれない。


たぶん、日本国内の企業で働く外国人はファミリーネームにさん付けで呼ばれていそうだと想像する。現にある私立学校の教師をしているクライアントは名字にさん付けだと聞いた。


Aさんのレッスン当日、次はBさんのレッスンだった。Bさんは、それには面白い現象だと前から気がついていたが、自分はどっちでもいい、とのことだった。ただし、私を「先生」だと思っているので、「ーさん」と呼ばれるとぎこちない。というのは、自分の国では教師はファーストネームの呼び捨てで、学生は「Mr.ー」と呼ぶので、それをはずれると調子が狂うそうだ。自国の文化のどこを選び、どう実際の場面に適用するかによって、答えは変わるようだ。


異文化間コミュニケーション。
違う文化をもちよって、自身の文化と相手の文化をいったん棚上げしつつ、相互に説明し、強調し、反発しながら、理解と誤解から、主張と譲り合いから、新しい一致点の創造をいやでも迫られる状況。個性やら人間力やら力関係やら、固定した文化観では解決できない課題。
大人同士なら本来は同じ文化を共有していても、この態度、この感覚はやれていなくてはいけない、と以上のようなことを日本語で書いたわけ。


でわ、今日の1曲はこれでげす。


おまけでげす。ネタバレ嫌な人は見ないでください。Catch22の
印象に残るシーン。