人類のイメージ


注意
下記の草稿は、一般人の直観の寄せ集めの、それも未完の産物です。本気にしてはいけませんよ。それでも良かったらお読みください。


人間圏の概念について、その存在様態を考えてみた。

水圏、岩圏、大気圏などは物理的特性を同じくする物質の連続性が認められるが、微生物植物動物が織りなす生態系圏においては、個体の織りなすネットワーク構造が、圏のサブスタンスとなっている。

ヒトの社会集団が農耕を始めたところから、生態系圏=バイオスフィアから分岐したと松本孝典は指摘する。物質交代の次元では、ヒトの集団において、有用な物質が他の圏へのフィードバックを返さず、留め置かれる。生態系にとっての有用な物質の取り込みは循環の絶対量を減少させる。生態系の地球上の地理的範囲が減少し、多様性という維持存続の可能性が縮小される。これはまた、フィードバックされる物質が生態系の循環にそぐわない物質が廃棄物として放出され、循環が阻害される。


このような物質交代は、ヨーロッパの大航海時代によるネットワークの拡大と、産業革命以後の生産性の効率化によって幾何級数的な拡大の一途をたどり今日の21世紀初頭の状況を迎え、通信及び流通の国際的拡大によりさらに留まる所を知らないかのような印象を与えている。


現時点において、このような人間圏の維持もしくは拡大は、生態系の許容量の限界に迫っていることが推測される。それは、すでに破局的であり大破局が不可避である可能性から、限界直前の間のいずれかであろうと、私は推測している。


ひるがえって、人間圏システム内部のこのような拡大と強化の駆動要因を突き止めねばならない。消去法を使って範囲を限定するならば、このような生態系との共存が十分に考慮されなかった事から、なんらかの社会集団的文化的価値がその駆動要員であったと結論できるだろう。


個人が固有名を持つのと平行して集団および集団の帰属する土地についても固有名がつけられる。固有名は人間圏システム内で、生態系および自然全体とのインターフェイスにおける物質交換回路のメルクマールとなっている。資本制生産システムにおいては抽象的に情報処理される物質も、その基盤はいまだに古代以来の固有名のついた人格あるいは法人(企業あるいは国家)である。例外があるとすれば、先住民に帰属する土地であろうか。あるいは極地、あるいは地球外の自然。


ここでの国家と資本は柄谷行人「世界史の構造」の定義によっている。


この固有名の散逸的複合的ロカリゼーションを手がかりにしよう。システム内部的には商品として抽象化された物質のネットワーク内での交換をサブスタンシアルなテクスチャとしている。繰り返すが、人間圏の外部との物質交換の回路のインプットの入り口は、固有名によって排他的に占有する主体によって担われているだろう。


この第一次産業セクターの自然界とのインターフェイスでは、固有名を担う主体が多国籍企業などの場合を典型として、誠に不公平かつ理不尽かつシステム内部的にも利得の分配の意味で、持続不可能な労働力の投下によって成り立っている。国家内では都市と地方の格差、世界規模では富裕国と貧困国の格差として顕在化している。現段階でそれを可能にしているのは、硬直的にいまだに拡大を志向する巨大企業と国家という人間圏内部のサブシステムである。


これをいかに止めるのか、に関しての試論をここから考察してみよう。人間圏概念の提唱者松井孝典はレンタルの思想を提唱している。借りた物は返す。そっくり返す。できれば利子をつけて返す。これを実現可能な内部のシステム改変の方向性を示すモデルイメージがある。それは粘菌である。


NHKの番組で見たものだが、粘菌は栄養豊富な環境ではバラバラに生息しているが、栄養が不足すると集合して移動可能な形態になって栄養のあるところへ動く。このような形態を取る場合、物質交代は環境の限界内にとどまるのではないだろうか。これは固有名の散逸的複合的ロカリゼーションと矛盾しない。人間圏の原基的形態とみなしてもよいのではないだろうか。果たして国家と資本がこのような柔軟性を持ち得るか。あるいは、そのような柔軟性を獲得するための次世代的形態はどのような物であり得るかについて考えたい。国家や資本の細分化と民主的意思決定システムのより具体的できめ細かい生産現場への適用はひとつの手がかりではないだろうか。


少なくとも、国家や資本に人間圏システムのすべてが従属する関係から、人間圏システムの持続という目的に国家や資本が従属する関係の逆転を実現する実践的な実験に茶楠すべきときではないだろうか。これは現状では容易な事には見えないかもしれないが、不可能ではないだろう。そうでないと人間圏全体がひどいことになる。あるいは、もうひどいことになっているかもしれない。


今日達成された情報革命の恩恵を維持するならば、国家の数が今の数より一桁か二桁増えても問題はないのではないだろうか。少なくとも、雇用が増えて、スローライフ化は促進されるような気がする。


私がこのようなことを考え始めるきっかけになったスーザンジョージの「なぜ世界の半分が飢えるのか」のもっとも印象に残った命題は、食料不足は貧困国に回す食料が不足しているのではなく、世界的分配システムが不公平にできているからだというものであった。この命題は今でも妥当なのであろうか。一見今回の人間圏に関する考察とは矛盾する命題のようだが、このことも含めて、今後も考察を続けていきたいと考えている。


以上で本稿の考察を終える。

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