52歳と1ヶ月の所感


世界は、東エイジアは、日本は、大阪は、ますます暗雲たちこめておりますけれども、それと関係あったりなかったりの個人としてできる事を捲まず撓まずやり続けるしかありません。


たまたま堺市庁に用があり、21階展望台に初めて上がってみました。当たり前ですが初めての視点から堺市を眺めました。うすぼんやりと霞がかかった景色でした。天気のよい時にまた訪ねたいものだと思いました。


年初には今年は、だいたい日本語についてまとまった文章を書き上げる事と創作作品を書くペイスを維持するふたつのことを仕事以外ではしようと思っていましたが、英語ももうちょっとしっかりしたものにしなければいけなくなってきているようです。仕事の関係で。


そこで、やはり、ケインブリッジの独学者用の教科書が生きた英語学習には
よいと思います。文法と、コロケーションとフレイザルヴァーブとイディオムをとりあえずやってますが、ヴォキャブラリーのケインブリッジの教科書も目を通したいなあと思っています。この土台の上で、読む書く、聞く話すを必要に応じてやればちっとは実力がつくだろうと思います。


特に作文が全然めちゃくちゃなことが自覚できたので、作文も含めてバランスをとらなければなりません。


年末にたまたま新潮社のシャーロックホウムズの文庫が古書店で全部手に入ったので、ペイパーバックのコムプリート版を買って来て「緋色の研究」と「四つの署名」を読みました。帝国主義と植民地という文脈から歴史的背景をもっと知りたいと思いました。


年間のスケジュール帳に毎日細かくその日の出来事を記録する習慣を始めたので、これはぜひ続けたいと思います。


ああ、でも、もう20日。18分の一ぐらいの今年は終わってしまいました。


今年は飛躍の年にするぞ(棒読み)

ある指摘、外国人の呼び捨て


日本語レッスンのクライアントであるAさんから、ある指摘をいただいた。能力試験N1にチャレンジ中とはいえ、日本滞在が長くパートナーは日本人であり、コミュニケーション力はすでにそれ以上の方である。


日本人が外国人を呼ぶときに呼び捨てにすることである。あるグループの中で日本人同士は姓にさんを付けて、「田中さん」のように呼ぶのに、外国人の場合、そんな中でもファーストネームで呼び捨てにする、たとえば、ジョンスミス氏を「スミスさん」と呼ばずに「ジョン」と呼ぶ傾向がある、というのだ。


そのときは限られた時間内で、一応、ケースバイケースでいろんな呼び方、呼ばれ方をしていると考えられるので一概には言えないのではないか、最後にそのようにお答えしたのだが、しかし、まだ決着がついたとは考えていない。すっきりしない。実際どの程度そうなのか。それはモンダイなのかそうではないのか。ここでも、結論は出ないがそのとき出た想定や、その後ほかのクライアントとの話、わたしの考えなどを今からずらずらっと書くので、この記事を目にとめてなにかコメントがあったら、書いて下さい。


まず、その指摘を受けて、Aさん自身も具体的に経験があるか、訊ねた。ウイキペディアにもそれに触れた記事があり、そこで人権問題にもなりかねないと書いてあったとのことだった。また、Aさん自身、ある公的機関を定期的に利用していたときにしばらく呼び捨てにされたことがあり、その相手に不快なのでやめてくれるように頼んだことがあった。ずいぶん前だったが、確かに私もその話を伺ったことがあった。


さらに、Aさんがパーティーをやったり友人のパーティーに参加して前からそれが気になっていたそうなのだ。日本人と日本人以外のどちらも来る。そのときに、日本人が日本人を呼ぶときは名字にさん付けするのに、外国人はファーストネームの呼び捨てになる。


Aさんからの話は大体そういうことだった。
日本人の場合は友人同士であっても、大人になってから知り合った友人には共通のあだ名でもない限り、名字にさん付けになるのが大方だろうと私は思うので、そのことはAさんにも言った。


今考えたことも書いておくが、子どもの場合でも親しみをこめて呼ぶ場合に、呼び捨てだけではなく、ちゃん付けもある。
でも、その場面で、仮にジョンスミス氏をつかまえて、友達といえども、「ジョンちゃん」では子ども扱いになる気がする。そして彼が属していた元の文化の慣習では、親しくなったら「ジョン」と呼び捨てにするのだろうと日本人は考えていると思う。


これはこれで、私たち日本人にとっては自然な思考経路を経てそうなっているだろうが、Aさんにもっと詳しく意見や考えまで聞けていないので、この辺から、自分の考えばかりになってしまうけれど、指摘してくれた当事者の話を詳しく掘り下げておくべきだったと反省しながら先へ進むのだが、Aさんはたぶん、一度この非対称性に気づいて気になり始めたのだろうと思う。


そう。思い出した。Aさんが自分の希望として明言したことがまだひとつあった。日本人の間に溶け込んだ気持ちになっている自分としては「同じように扱ってほしいのだ」ということだった。Aさんがこの話題をレッスンのトピックとして持ち出したのもそのためだった。それを忘れていた日本人の私の意識の動きの揺れ、無意識の隠蔽、そんな微妙な心理のひだひだ上の無自覚にも目を向けるべきだろとこれを書きながら気がついた。


日本国内でもたびたび目にすることの出来る海外ドラマの友達になるシーン。I'm John. Call me John.で、握手。多くの日本人の場合本物の外国人と出会う前からこういう映像に出会っていることが多かろう。そこでAさん、またはAさんと同じ気持ちの人の希望を聞かずに、――友達になったようだから、ええとこういう場合は呼び捨てにするのだろう。日本人的な敢えて言葉にしないで相手を慮った行為を実行する傾向が、ここで発動する。


この類推の過程には漏れがひとつある。シーンを巻き戻してみれば明らかだが、本人の「呼び捨てにしてくれ」という宣言がはさまっている。無論、実際のほんものの外国人が希望の呼び方を宣言していれば日本人サイドもそれに従うだろう。けれども、日本人同士の習慣では、初対面で自分の呼び方を相手に告げる習慣はない。それに従う限り、外国から来た彼または彼女は、日本人にファーストネームで、しかも呼び捨てにされてしまう。


Catch22!
・・・この映画、おもろかったなあ。小説も上下全部読んだなあ。不条理戦争コメディの金字塔。


異文化間のコミュニケーションで、どっちの文化的習慣をドミナントにするかというところだ。ここで、ああ、ふたつの文化のいわゆるひとつのすれ違いが生まれていたのだと一度嘆息してみよう。そして嘆息に終わらないで日本文化的に「外国文化」を組み込んだ扱いが無意識のうちにダブルスタンダードになってしまっているというAさんの指摘もあることを思い出そう。


個人間の距離はもとより、日本での生活の年期の入り方や個人個人の思想信条や性格や好みで、一様な最適解は得られないかもしれない。そんな案件なので、一人一人の相手に聞くのが一番でありましょう。


さて、日本語教育の経験者なら、ここまで私が「外国人」と言いながらイングリッシュネームを持つ人で代表させている不手際にはすでにお気づきのことだろうと思う。


日本国内の日本語学校の学生には中国人、韓国人の方が数は多いし、そのほか、多様な文化圏から来てくれた人たちがいる。東アジア圏の学生は、日本語学校では名字にさん付けで呼ばれることが多いだろう。口頭のコミュニケーションは基本的に「です/ます」の丁寧体をもっぱら学ぶ所である。この場合、「王さん」や「張さん」が丁寧体に合うし、実際教師と学生、ならびに学生間も日本語で話すときは「ーさん」である。学生同士が母語でやりとりするときは知らない。だが、日本語を使う場合は教室での習慣を通している。


あるとき、ある中国人の学生のことで、その保証人の日本人の方と話していたら、私が決まって学生の姓にさんを付ける、相手の保証人は呼び捨てにする、と、そういうやりとりが続くうち、話の途中で、さすがは日本語の先生は言葉遣いが丁寧ですな、とほめられたことを思い出した。わしも本来なら「ーさん」付けたほうがええんじゃろうか、とまでおっしゃった。こちらはなんとなく温度差を感じつつも、惰性と言うか習慣と言うか、相手が呼び捨てにするのも、そういう人間関係が成立しているのだろうくらいに受け止めていた。


まあ、プロの日本語教師にとって、生の日本人の日本語の多様性やら揺れやらは観察の材料であって、普通は、その人がどうしてそういう日本語を使ったのかという考察はしても修正まではしない。日本人の日本語を直しても銭にはならんし。恨まれでもしたらかえって損だ。政治家だの、官僚だの、企業のトップだのの日本語は直し出したらきりがない。留学試験の論文でも点が取れんわい。


しかし、そこまでエラそうに言うプロを自認する日本語教師の世界でも、Aさんの指摘は西洋文化圏からの学生の呼び方について一石を投じる値打ちのあるものなのである。そうなんですよ。アンヘロ=サムソンさんは、サムソンさんと呼ばずにアンヘロさんと呼んでいた。メアリー=ラフルーさんはラフルーさんではなくメアリーさんと呼んでいたのです。ただの日本語教師以上に、国際的に公平公正な関係の構築に敏感であると自分では思っていた私でさえも、いまになって気がついた。てーたらく。


ちなみに、どっかで聞いたことだが、中国人は日本に来たときは日本語読みを受け入れるが、中国に来た日本人の呼び方は中国語読みにするのが通例だそうだ。田中さんは、ディエンチュンさんだ。


巷の英会話学校で、中高生がアイドルのようにネイティヴの教師を
ファーストネームの呼び捨てにするのは、会話の練習としてフランクでカジュアルなコミュニケーションエクササイズをやって、その延長での呼び捨てなら、呼ばれる本人も容認しているのなら、それもよかろう。だが、大人もそれでは配慮が足りないと言わざるを得ない。一度、ネイティヴの先生なり、そのほかのそれぞれの関係において、ちゃんと聞いてない場合は聞いてみて。これを読んで、あっと思った人は、一度聞いてみることをお勧めする。関係が悪くなることはないと思う。


考え過ぎかもしれないが、ひょっとすると、英会話学校の大人たちも、それから、日本語学校の教師たちも、マレビトとしてコミュニティーに現われた外国人をまつりあげてしまっているのかもしれない。かつての地域社会にあった共同体はもはや見る影もなく、英会話学校日本語学校に来てくれた異人のおかげでできあがった擬似的なコミュニティーを束の間享受しているのかもしれない。


実際にはファーストネームで呼び合うにはまだまだトモダチと言えるほど理解し合えていないと胸に手を当ててみたアナタが感じるのであれば、オトナなのに舞い上がっちゃってないか検討する必要が。


以前から言われている日本人に対する批判、西洋崇拝非西洋蔑視の傾向については、今はまだ、これとそれに関連があるようなないようなどっちとも言えない心持ちだ。これまで自分はむしろその逆の傾向が強いような気持ちで生きてきたが、当然と考えて、見たり、聞いたり、やってきたりしたことに潜む落し穴に知らず知らずはまっていることがあるかも。


日本語学校では、丁寧体に偏っているとは前々から考えていて、今の自分のプライベートレッスンでは、普通体の会話も不十分ながら入れている。どちらも使えてスイッチできるように気をつけている。日本語学校でも友達同士の会話も本格的に入れてみると、また新たな発見があるかもしれない。


たぶん、日本国内の企業で働く外国人はファミリーネームにさん付けで呼ばれていそうだと想像する。現にある私立学校の教師をしているクライアントは名字にさん付けだと聞いた。


Aさんのレッスン当日、次はBさんのレッスンだった。Bさんは、それには面白い現象だと前から気がついていたが、自分はどっちでもいい、とのことだった。ただし、私を「先生」だと思っているので、「ーさん」と呼ばれるとぎこちない。というのは、自分の国では教師はファーストネームの呼び捨てで、学生は「Mr.ー」と呼ぶので、それをはずれると調子が狂うそうだ。自国の文化のどこを選び、どう実際の場面に適用するかによって、答えは変わるようだ。


異文化間コミュニケーション。
違う文化をもちよって、自身の文化と相手の文化をいったん棚上げしつつ、相互に説明し、強調し、反発しながら、理解と誤解から、主張と譲り合いから、新しい一致点の創造をいやでも迫られる状況。個性やら人間力やら力関係やら、固定した文化観では解決できない課題。
大人同士なら本来は同じ文化を共有していても、この態度、この感覚はやれていなくてはいけない、と以上のようなことを日本語で書いたわけ。


でわ、今日の1曲はこれでげす。


おまけでげす。ネタバレ嫌な人は見ないでください。Catch22の
印象に残るシーン。

なまなまなましい夢


特にそのシーンの前の記憶はない。
自宅で何をするでもなく、自分の右手を左手でナイフを使えば切れると思い、切ってみた。そんな夢を見た。私は左利き、文字だけ右手で書いている。バターを切るように手の甲の側から手首の下の箇所にまっすぐナイフが入りたやすく反対側まで刃が通って、全体に切断線が入った。痛みや出血はなかった。ナイフを置いて右手をちょっと持ち上げてみてから元に戻すとなんらかの粘性があって付着した。切断線以外は変化なく、特におもしろみもなにもなかった。ところが、切断線からじわじわとわずかな出血が始まってしまい、くっつきが悪くなった。自分も慌て始めた。取り返しのつかないことをやってしまったと感じた。救急車を呼ぶために電話をかけにいきながら、「出血多量死」という語彙が脳裏に浮かんだ。


というところで夢は終わった。


寝る前に実際に大学ノートに手書きで少し文章を書いたが、書きながら字が乱れすぎて、これは後で見ても読みづらいだろうなと思ってから寝た。そのことと一番関連がある内容ではある。どうも日常のルーティンワークを退屈に感じ滑稽なところをみつけてくすくす笑いがちであるのだが、なんか、良くないものが溜まっているのだろう。


ナイフでからだの一部位を切ってもなにも起きない夢の中の自分の不死性の確信がじわーっとした時間経過の中で崩れて行く感覚は、心理的にリアルな感触の麻痺と復活のドラマとして貴重なようでもある。


その前に読んでいたのは「戦闘美少女の精神分析」で、いわゆるアウトサイダーアーティストというカテゴリーに入ると著者の言うギーターという人の話に去勢恐怖のことがあった。その前に読んでいたのは「荘子 内編」で、刑罰を受けて足を切られた有徳の士が登場していた。


あんまり掘り下げても良くない気がするので、この辺で。


Django Reinhardt / I see you in my dream

人類のイメージ


注意
下記の草稿は、一般人の直観の寄せ集めの、それも未完の産物です。本気にしてはいけませんよ。それでも良かったらお読みください。


人間圏の概念について、その存在様態を考えてみた。

水圏、岩圏、大気圏などは物理的特性を同じくする物質の連続性が認められるが、微生物植物動物が織りなす生態系圏においては、個体の織りなすネットワーク構造が、圏のサブスタンスとなっている。

ヒトの社会集団が農耕を始めたところから、生態系圏=バイオスフィアから分岐したと松本孝典は指摘する。物質交代の次元では、ヒトの集団において、有用な物質が他の圏へのフィードバックを返さず、留め置かれる。生態系にとっての有用な物質の取り込みは循環の絶対量を減少させる。生態系の地球上の地理的範囲が減少し、多様性という維持存続の可能性が縮小される。これはまた、フィードバックされる物質が生態系の循環にそぐわない物質が廃棄物として放出され、循環が阻害される。


このような物質交代は、ヨーロッパの大航海時代によるネットワークの拡大と、産業革命以後の生産性の効率化によって幾何級数的な拡大の一途をたどり今日の21世紀初頭の状況を迎え、通信及び流通の国際的拡大によりさらに留まる所を知らないかのような印象を与えている。


現時点において、このような人間圏の維持もしくは拡大は、生態系の許容量の限界に迫っていることが推測される。それは、すでに破局的であり大破局が不可避である可能性から、限界直前の間のいずれかであろうと、私は推測している。


ひるがえって、人間圏システム内部のこのような拡大と強化の駆動要因を突き止めねばならない。消去法を使って範囲を限定するならば、このような生態系との共存が十分に考慮されなかった事から、なんらかの社会集団的文化的価値がその駆動要員であったと結論できるだろう。


個人が固有名を持つのと平行して集団および集団の帰属する土地についても固有名がつけられる。固有名は人間圏システム内で、生態系および自然全体とのインターフェイスにおける物質交換回路のメルクマールとなっている。資本制生産システムにおいては抽象的に情報処理される物質も、その基盤はいまだに古代以来の固有名のついた人格あるいは法人(企業あるいは国家)である。例外があるとすれば、先住民に帰属する土地であろうか。あるいは極地、あるいは地球外の自然。


ここでの国家と資本は柄谷行人「世界史の構造」の定義によっている。


この固有名の散逸的複合的ロカリゼーションを手がかりにしよう。システム内部的には商品として抽象化された物質のネットワーク内での交換をサブスタンシアルなテクスチャとしている。繰り返すが、人間圏の外部との物質交換の回路のインプットの入り口は、固有名によって排他的に占有する主体によって担われているだろう。


この第一次産業セクターの自然界とのインターフェイスでは、固有名を担う主体が多国籍企業などの場合を典型として、誠に不公平かつ理不尽かつシステム内部的にも利得の分配の意味で、持続不可能な労働力の投下によって成り立っている。国家内では都市と地方の格差、世界規模では富裕国と貧困国の格差として顕在化している。現段階でそれを可能にしているのは、硬直的にいまだに拡大を志向する巨大企業と国家という人間圏内部のサブシステムである。


これをいかに止めるのか、に関しての試論をここから考察してみよう。人間圏概念の提唱者松井孝典はレンタルの思想を提唱している。借りた物は返す。そっくり返す。できれば利子をつけて返す。これを実現可能な内部のシステム改変の方向性を示すモデルイメージがある。それは粘菌である。


NHKの番組で見たものだが、粘菌は栄養豊富な環境ではバラバラに生息しているが、栄養が不足すると集合して移動可能な形態になって栄養のあるところへ動く。このような形態を取る場合、物質交代は環境の限界内にとどまるのではないだろうか。これは固有名の散逸的複合的ロカリゼーションと矛盾しない。人間圏の原基的形態とみなしてもよいのではないだろうか。果たして国家と資本がこのような柔軟性を持ち得るか。あるいは、そのような柔軟性を獲得するための次世代的形態はどのような物であり得るかについて考えたい。国家や資本の細分化と民主的意思決定システムのより具体的できめ細かい生産現場への適用はひとつの手がかりではないだろうか。


少なくとも、国家や資本に人間圏システムのすべてが従属する関係から、人間圏システムの持続という目的に国家や資本が従属する関係の逆転を実現する実践的な実験に茶楠すべきときではないだろうか。これは現状では容易な事には見えないかもしれないが、不可能ではないだろう。そうでないと人間圏全体がひどいことになる。あるいは、もうひどいことになっているかもしれない。


今日達成された情報革命の恩恵を維持するならば、国家の数が今の数より一桁か二桁増えても問題はないのではないだろうか。少なくとも、雇用が増えて、スローライフ化は促進されるような気がする。


私がこのようなことを考え始めるきっかけになったスーザンジョージの「なぜ世界の半分が飢えるのか」のもっとも印象に残った命題は、食料不足は貧困国に回す食料が不足しているのではなく、世界的分配システムが不公平にできているからだというものであった。この命題は今でも妥当なのであろうか。一見今回の人間圏に関する考察とは矛盾する命題のようだが、このことも含めて、今後も考察を続けていきたいと考えている。


以上で本稿の考察を終える。

チャールズミンガス ピテカントロプスエレクタス

おもいつき


朝電車内で着想、ニーチェの神の死の自覚に相当する日本での超越的メンタリティの無化はなしくずしかつ無自覚な世俗化の過程のどこかで遂行されたのではないか、と。
西洋と日本の違う所は、一人の思想家が著書で「宣言」したことで、その後賛否それぞれの立場で議論が可能な条件がある。日本では、もともと「言明されていない」ので、議論もなく既成事実が積み重なるに任される。
そういうことではないか。
一つのエポックは、神棚や仏壇の代わりをテレビがし始めたときだろう。


また今トイレ行って「(ダメな)日本語教師どもと日本人の知らない世界」というタイトルで趣味の物語ライティングを始めてはどうかと思いついた。

3月20日(日)


51歳と3ヶ月になった。昨日は広瀬隆「原子炉時限爆弾」を購入。去年出た本だけど、大地震とその影響による原発の事故について警告している本であった。


つくづく自分のことを反省しなければならないと考えている。ひそかに自負していたことが浅はかな虚栄だったこと。


小松左京のファンであった自分なのに。フィクション、ノンフィクションを問わず熱心にほぼ全部の作品を読んだのに。自然の脅威、地震津波の恐ろしさについての認識が不十分だった。大江健三郎のファンであった自分なのに、フィクション、ノンフィクションを問わず熱心にほぼ全部の作品を読んだのに。核の本当の禍々しさ、そいつがもたらす災厄が分かっていなかった。筒井康隆のファンであったのに、フィクション、ノンフィクションを問わず熱心にほぼ全部の作品を読んだのに。社会の裏に狂気がひそんでいていつでも牙を剥いて、そいつのせいであっけなく人々が犠牲になる。そんなことは分かっていた・・・かもしれないが、現実に顕現したときの威力については軽視していたとしか言いようがない。


でも、それらはやってきた。


今日は「原発はなぜ危険か」という本を求めて書店に聞いてみたが、古い本で品切れ中との返事だった。事務所に戻ってから本棚にみつけた。まだ読んでいなかったので購入した記憶がなかった。置いてある場所を把握していなかったのでこの間探したときに見つけられなかったのだ。それで古本屋ではよくみかけるけど買っていなかったんだと思いこんでしまった。あった、あった。SFのコーナーの一隅の環境問題のとこに。


四日前、中国人の以前の教え子だった若い友人を関西空港近くのホテルまで送った。その前、成田、羽田からの中国行きは切符が取れず、中国政府の特別機にも乗れそうにないので名古屋、関空の切符はどうか調べてほしいと依頼を受けた。月曜日、14日の段階で23日以降でないと空席はないとのことだった。テレビの問題の発電所の中継をみると爆発していないほかの原子炉の白煙が映っていた。家に一泊してから出発したが、遅くまで彼の仕事のことやらいろいろな話をした。


大阪在住のプライベートレッスンのクライアントらは今のところは留まる予定。今日のクライアントは、なんと子どもができたという報告。これは明るいニュウス。帰国も視野に入れて今後のことを検討しているとのこと。もし帰国してもスカイプでレッスンしようと話した。ふと、その人の目の周りのメイクの全体が蝶の羽のようなカタチを作っていることに気がついた。


原発についての報道やネット上の情報は、12日から、ずっと注目していて、いろいろと収集した。某巨大掲示板ツイッターフェイスブック、テレビのストリーム放送、いくつかのメルマガとグループメール、そこからリンクを伝って、新聞や動画にあたり、取り込むべき情報をコピーし、ストリーム放送の重要な内容のものは聞き取ってメモを取った。


こんなに自分のペースでなく、相手のペースで動き続けることはひさしぶりだった。ああ、日本語学校の現場で仕事しているときはこのようであったなあ、と体の奥底が懐かしがっている。


でも、さすがに絶えずニュウスに備えて情報媒体を見張り続け、休みなしに慌ただしい保存作業を、外出とレッスン以外、一週間やったんで小休止を入れたいと思い始めたところでもある。


原発事故の情報の内容と信頼性では、私の眼に触れる範囲では、<原子力資料情報室>がよいと思う。
東芝の原子炉内部の格納容器の設計と、温度と気圧の影響を研究していた方、後藤政志氏をおもな解説者として、気になる放射線への影響についてのエキスパートの話も動画としてあがっている。今後も必要な間は毎日動画による
情報提供をしてくださるようだ。
このサイトがなければ、私の個人的記録作成も始まらなかっただろう。


その後の情報収集の過程で、NPO<環境エネルギー政策研究所>の情報発信に触れて、現状の理解と個人レベルでも準備できる対応策の指針をここから得ることができると判断している。


これらのサイトをご存知の方も多いかと思うが、マスコミを通しての行政、電力会社、原子力保安院、テレビ局の解説者の情報提供だけではますます不安になるという方はご覧になって、比べてみるとよいと思う。


ところで、まだ地震津波が来ることなど思いもしなかった3月10日の木曜日が明けた午前午後は、ワルプルギスの夜ときゅうべえとまどかとほむらが来週はどうなるのかばかり考えていたものだが、結局、国中がそれどころではなくなってしまった。放送は中止になった。


今、まんがとアニメのレクチャーを教授しているクライアントには、このすごい作品の紹介のために、予定を変更して魔法少女ジャンルのあらましを説明した。それに列島を揺るがす状況とのシンクロ感を。


そのとき思ったのは戦闘少女ヒロインは、魔法少女ものというジャンルがあったからこそ生まれたのではないか、「魔法少女まどか☆マギカ」はそこからの逆輸入かと思うが、たぶん続々と作られるアニメ、そのほかのゲームを含めたフィクションなどたくさん見ている人には特に目新しい所もないのかもしれない。


それから昨日の午前4時前には予断を許さぬ原発の状況を探る緊張から逃れて、ベランダへ出てスーパームーンを眺めながらタバコを一服した。村上春樹さんめえ、と思ったのであった。月は言われていたように大きく見えるものではなかったが、初めて見るような鋭い白銀の輝きをまとっていた。つい今しがた生まれたばかりのようだった。こちらが恥ずかしくなるほど得意げにめかしこんだお月さんだった。


こちらが恥ずかしくなるのは、言うまでもなく、それほどにゴージャスなお月さんの光に照らされるに値する我々人類ではないからだ。


午前3時。NHKのニュースが始まった。東北大地震と深刻な事態に陥っている福島原子力発電所について。大阪は強い雨が降っている。

心の働き:<大局観>と<全体像>の違い。


<全体像>は認識に関わり、<大局観>は実践に関わる。

まず前提


ある対象への注意の持続を集中というとしよう。


対象の種類の違いに応じて、対象把捉の様態も異なる。
知覚対象(視野における物、人、音、臭い、口中の食物などなど) 抽象的対象(多様な現れを見せる一人格、文化的対象である社会的役割、関係性、おのれ自身、趣味嗜好の対象、学問研究のテーマなどなど)


いずれにせよ、集中により、対象への定性的な了解が得られるわけで、それらの階層的関連付けが、<世界>の内容を充実させる構成要素として取り込まれる。ただし、身体の細胞が一定期間ごとに入れ替わるのにも似て、世界を構成する内容も常に一定というわけはなく変化するはずである。


その基底となるそれぞれが無規定な世界ー意識ー身体という構造の方は相対的に恒常性を保つ。

前提終わり


次は<全体像>の形成について


私は個人的な趣味で、<人類>という対象のラフスケッチを得たいと夢想し、生存に必要な<仕事>と<生活>の他の時間を使い範囲をできるだけ広げ読書している。複雑巨大であり、その性質は複雑怪奇、宇宙や地球に比べれば存在期間は短いとはいえ、個人が把捉するには長過ぎる歴史を経たこの<人類>という対象について、私はとうてい満足できる全体像を描くことはできず、ポイントだけをつかむと言っても、最低限の重要ポイントを押さえることさえ残りの余暇時間を死ぬまで使っても無理であることは明白だ。


<人類>という複合的でとらえがたく、私個人も微々たるとはいえその一部である対象。この対象の一断片を注意し、集中して認識する。たとえば<哲学>。別の一断片へ。たとえば、<歴史>。たとえば<自然科学>。たとえば<中東情勢>。たとえば<フィクション>。たとえば<国際社会レベルの問題>


こういった集中の前提にあるいまだ完成されざる<世界観>というものも個人の私の裡には既に形成されており、その<世界観>は未完とはいえ不可思議にも何らかの意味での<全体性>を備えている。


イメージで説明すると、大きな塊があって、黒い布に包まれているのだが、近くへ行ってその黒い布の一部分だけ剥がすことができる。ちょっと覗いた布の内側の一部が本体の全体像の手がかりにはなる。だが、これを繰り返してもいつまでも黒い方が大きいまま。後は想像するしかないし、その想像は止めても止まらない。そんなイメージ。


人類にとっての共通の意識の基底となる構造はどうであろうか。文化的伝統、教育、学問、社会制度や法体系、社会慣習と個々人の行動様式などなど。だが、人類と言うからには文化をさらに底で支える生物的基盤の共通性も押さえるべきだろう。


続いて、<大局観>の形成について


<大局観>に関連がある脳神経細胞が存在するという仮説が、日本の大学の研究が新聞に載っていた。それは棋士の脳の働きを調べることから得られた説だ。読み切れない局面で<次の一手>を決断しなければならないときに働くそうだ。これは新聞で読んだので、あまり詳しいことは分からなかった。


羽生名人の同じタイトルのご著書によると<大局観>は、「いかにひとつひとつの筋を読まずに見通しを得るかというもの」で「経験を積むことによって高められる能力」ということが書かれてあった。年齢とともに伸びるものなのだ。論理演算的処理の及ばない対象への美的価値判断をともなう直観の適合と言うべきであろうか。また困難な実践的判断を促される緊張という条件が、その良き発動には関わるものだろう。
また「一所懸命集中して考える努力の積み重ね」も<大局観>の形成には重要な過程である。


自分の場合、今は、<大局観>を研ぎすまし、筋の良い負けない手、あるいは、思い切って勝ちに行く手、あるいは最低でもその両方を連続して打って行かなければならないときだと考えている。また、現状はあまり経験が役に立たない状況のようでもある。むしろ経験が邪魔?そんな局面も現実には起こる。


そういう局面を迎えている51歳の人間が日本に居ることが理解できない人の方が多くてなかなか理解させるまでに至らない。50代の自由な個人は珍種、珍獣並みである。これには資本の裏付けがないとしんどい。だから宝くじにはぜひとも当たりたい。むろん<仕事>の拡大も考えなければならないが。


今年に入って、2ヶ月経過したが、私の趣味の活動は前年からの英語、英文学、新たにこれまで手を出さなかった種類の哲学、おととしからの続きの数学、先史時代の本など喰い散らかし、焦ってあれこれ手を出し過ぎの状態だったことは明白である。すべて手をつけようとすると、学習とトレーニングが必要な分野と素人研究を引き続き進める分野がある。ついに数年続けてきたが一次休止せざるを得なくなったトレーニング項目もひとつできた。


時間が欲しいと嘆きつつそれだけではどうにもならないので、どうしたもんかとアタマの片隅では、コレデハアカン警報をチカチカ点滅させながら、特定の項目に集中するという時間の使い方で今年の冒頭は過ぎてしまった。


対象として認識する世界の尨大さは途方もない。意識のスポットライトを当てることができるのは世界全体のほんの小さな断片の細々としたパッチのバラバラな寄せ集めでしかない。そのような問題設定は、<仕事>や<生活>からの逃避に陥りやすいことも否めない。


今日の結論は以下のようになる。


<全体像>というものは鮮明に象を結ぶものではなく、ぼんやりとしか形成されない。非常に少量の限られた情報をもとに、大部分が欠落しており、それを埋めるために想像や推論で補完するしかないものである。


比喩や象徴といったシンボルによる高度なパターン認識の道具もこのためには有効で、物語などはあくまでフィクションではあるけれども<全体像>の形成には有用なのであろう。


<大局観>とは、かくのごとく限界づけられた人間ではあるが<生きる>ための行動ーー次の一手ーーを最善にするための直観そのもの、この直観を助け、決断を下すその瞬間に必要な見取図の形成、すなわち過去の経験と将来の予想を自分の行動と関連づけて統合するヴィジョンの形成、それら全部のこと。


恐らくこの結論から引き出せる教訓のひとつは、<大局観>で用いたヴィジョンはあくまで行動する主体の生存目的によるものであるから、それを客観的に他者にも当てはめられる<全体像>と混同しないように注意が必要である、ということだ。


実生活においてすでに動いている集団は実践的な意味での相互の了解に基づいて活動しているが、そこで形成されているヴィジョンはその集団の実践目的のものなので、客観的に妥当かどうかのチェックが必要である。


ここに、集団の健全性を維持するための<議論>、または構成員の入れ替えの必要性が存在する。


物の順序でいえば、<大局観>が先にできて、余裕があれば<全体像>が生じて来るのであろう。それにふたつが一旦出来上がってしまえば、その後の自然な状態では両者は絡み合い分ち難く結びついていることだろう。


ただ<大局観>だけで生きている人には<全体像>を語る資格はないし、普段<全体像>の精度をあげる認識活動や情報収集も怠るべきではないだろう。また<全体像>の精度を上げる方に集中すると生き延びるための行動に問題が生じる可能性がある。科学者等は職業としてこれをやっているわけのものだ。


両方は自然にうまくバランスを取っているもののはずだが、個人ではできていても、集団においては意識的に組み込まないと偏ってしまう可能性が高くなると思う。





終わり